※アイキャッチは地理院地図(電子国土Web)より引用し加工。
広島市安佐北区可部町大林に、かつて「大簿(おおずすけ)」と呼ばれた集落があったことをご存存じでしょうか。現在の国土地地理院地図では森林に閉ざされ、Google Mapsでは山肌が露呈するという、謎めいた現状を見せています。

※地理院地図(電子国土Web)より引用し加工。写真は1974年ごろ。国道54号線の位置と比較すると標高の高いところに集落があったと思われる。
しかし、昭和40年代の空中写真からは、かつて棚田が広がる豊かな郷であった面影がうかがえます。本稿では、この「大簿」集落の知られざる歴史と、なぜ地図からその名が消えてしまったのか、その背景を探ります。
1. 「大簿」集落の姿を追う:過去と現在のギャップ

※「ひなたGIS」より引用。古地図(日本版MapWarper5万分の1)明治21年発行の地図なので、戦前よりもっと前に存在していた村なのかもしれない。
1-1. 昭和40年代の「大簿」:棚田が広がる農村景観

※地理院地図(電子国土Web)より引用し加工。1961〜1964年。棚田か段々畑のようにも見える。
ご提供いただいた昭和40年代の空中写真を見ると、現在の森林に覆われた風景とは対照的に、広大な棚田が段々に広がる様子がはっきりと確認できます。これは「大簿」が、かつては農業が盛んな典型的な山間農村であったことを雄弁に物語っています。
ちょうど現在の隣接する「本郷」集落に広がる棚田のように、大簿もまた、人々の暮らしが息づく豊かな田園風景が広がっていたと想像できます。

※地理院地図(電子国土Web)より引用。1974〜1978年。まだ集落の形が確認できる状態にある。何かの用途で使われていたのか。
1-2. 現在の「大簿」:森林に覆われた山肌の謎

※地理院地図(電子国土Web)より引用。ほぼ森林に覆われた大簿。
広範囲が深い森林に覆われ、かつての棚田の痕跡はほとんど見当たりません。
しかし、Google Mapsで現在の「大簿」周辺を見ると、その様相は一変しています。一部には山肌が露呈している箇所も見られ、これはかつての耕作地が放棄され、植生が十分に回復していない状態である可能性を示唆しています。
なぜ、この地はこれほどまでに姿を変え、人々の営みが消え去ってしまったのでしょうか。
2. 「大簿」消滅の背景を探る:広島県の過疎化と共通する要因
「大簿」集落の消滅は、日本の高度経済成長期に多くの山間部や離島部で起こった過疎化現象と無関係ではありません。広島県内の過疎地域を対象とした研究から、その背景にある共通の要因を推測することができます。
2-1. 交通の隔絶と都市からの距離
「大簿」が可部市街地に近いとはいえ、国道54号線から急峻な山道を上がる必要があることは、交通の便が決して良いとは言えません。実際、「広島県における過疎地域の研究」によると、「都市に近くとも幹線道路からはずれた交通不便な高位置に分布するものとがあり、現在廃村となっていることが多いのは後者である」と指摘されています。
この知見は、大簿集落の状況に重なる部分があります。都市部(広島市中心部など)への通勤・通学が困難であったり、生活物資の入手や医療機関へのアクセスが悪かったりといった交通の不便さが、人口流出を加速させた一因と考えられます。
2-2. 産業構造の変化と生活の困難
昭和40年代の高度経済成長期は、日本の産業構造が大きく変化した時代です。これは山間部の農業にも大きな影響を与えました。
- 製薪・製炭産業の衰退:同研究では、昭和35年から40年にかけての過疎地域内の人口減少率と「製薪・製炭依存農家率」の間に0.66という比較的高い正の相関があると報告されています。
もし大簿集落が製薪・製炭に強く依存していた場合、燃料革命(LPガスや石油の普及)による木炭需要の激減は、地域の経済基盤に致命的な打撃を与え、離村に繋がった可能性は十分に考えられます。 - 農業経営と就業機会:意外なことに、「広島県における過疎地域の研究」では、「農家一戸当りの経営耕地面積」や「零細規模農家率」といった農業経営の規模を示す指標と、人口減少率との間にほとんど相関関係がないことが示されています 。
これは、「経営規模が零細であっても就業機会に比較的恵まれていれば、人口流出はある程度抑えられ、農村といえども農業は産業というよりも、伝統的生業となっていることを示している」と結論付けられています 。
つまり、農業の規模自体が直接的な離村要因ではなかった可能性があり、むしろ農業だけでは生計が厳しく、他に働き口がなかったことが、人口流出の主要因であったと推測できます。 - 自然災害の影響:研究では、1963年の「38豪雪」のような自然災害が、特定の地域の過疎化を加速させた要因として挙げられています。
大簿集落が直接的に大きな被害を受けたかは不明ですが、当時の山間部集落が抱える自然条件の厳しさが、生活の困難さを増幅させた可能性も否定できません。
2-3. 戦後開拓と集落の変遷
広島県は、戦後の食糧難や、満蒙開拓からの引き揚げ者、戦災者、復員軍人などの受け入れのため、大規模な開拓が行われた地域の一つです。県内には約200カ所もの開拓集落ができたとされ、「広島中部台地開拓建設事業」のような大規模な事業も実施されました。
大簿集落が直接的な戦後開拓によって形成された集落であるかは不明ですが、当時の土地利用や人口動態に、こうした広域的な開拓の動きが間接的に影響を与えた可能性も考えられます。
3. 「大簿」について追記
備前坊山と大薄
大薄集落跡は備前坊山(びぜんぼうやま)という山の中腹(やや上?)にあり、登山道を辿る途中で、その入口付近を通り過ぎるため、立ち寄った方もいらっしゃるかもしれません。
この集落跡について、後日手に入れた「大林地区名勝・旧跡等散策案内図」という郷土パンフレットに、簡潔ながらも非常に興味深い情報が記されていました。
かっては、備前坊山頂にあった西光寺への道路脇にあり、6軒の家があったと伝えられる。今は無住地域となった。文政二年(1819)の国郡誌下調べ書出帳では、取高、二石五斗七升とある。
引用された情報からは、かつての集落の姿が浮かび上がります。最盛期には6軒の家が軒を連ね、備前坊山頂の西光寺へと続く道の傍らに位置していたとのこと。現在は誰も住んでいない「無住地域」となってしまいましたが、かつては人々の営みが確かにそこにあったのです。
特に注目すべきは、文政二年(1819年)の記録に残る「取高、二石五斗七升」という記述です。
これは江戸時代の土地の生産力を示すもので、成人男性が1年間に食べる米の量が約1石とされることから、この約2.57石という取高は、決して大きな規模ではありませんでした。6軒の家があったという伝承と合わせて考えると、大薄集落は、自給自足に近い暮らしを営んでいた、非常に小さな山間部の集落であったことが示唆されます。
日々の食料を確保する程度の生産力で、豊かな経済的余裕があったわけではない、慎ましい生活が想像できます。
いつ頃から無住地域となったのか、その詳しい時期は不明ですが、このわずかな情報から、遠い昔、この山奥でたくましく生きていた人々の生活の一端を垣間見ることができた気がします。
彼らはどのような日々を送っていたのでしょうか。そして、なぜ集落を去ることになったのか――。そんな想像をかき立てられる、歴史の舞台がここにあります。
まとめ:失われた風景と、未来への問いかけ
広島市安佐北区可部町大林の「大簿」集落は、かつて棚田が広がる豊かな農村でありながら、時代と共にその姿を消しました。交通の不便さ、産業構造の変化、そして人々の生活の困難が複合的に絡み合い、この地域の風景を変えていったと推測されます。
この失われた集落の歴史に光を当てることで、私たちは自然と共生し、変化してきた地域の風景、そしてそこに生きた人々の暮らしへの敬意を深めることができるでしょう。
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