比治山の中腹に観音寺というお寺があります。
観音寺は本堂と鐘楼が被爆建物として登録されており、以前から気になっていたので行ってみました。
観音寺の場所
観音寺は広島市南区黄金山町の北東に位置しています。
観音寺へクルマで行くルートですが、黄金山を横断する道路の途中に駐車場に向かう交差点があります。
駐車場からは坂道を約5分ほど歩きます。
観音寺の本堂は墓地の西側にあります。
観音寺と原爆
観音寺(爆心地から4,250m)
被爆時の名称:観音寺
階段上の本堂と鐘楼は、昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。
この説明書きは本堂前にある階段の右側にあります。
被爆建物として登録されているのが、こちらが観音寺の本堂と。
鐘楼です。
観音寺は爆心地から4,250mの位置にあります。
観音寺の境内から爆心地の方向。
観音寺について
仁保島城の城主であった三浦兵庫頭が菩提寺として建立し、そのときの山号は黄金山でしたが、慶長年間 (一五九六年~一六一五年) に梵潮山と改称されました。
元忠が在勤したのは天正十九年(一五九一年)から慶長元年(一五九六年)の期間であり、この寺の創建はその初期の頃と推定されます。
その後、江戸時代には衰微し、無住職となっていましたが、正保年間 (一六四四年~一六四七年)に興禅寺の僧雲嶺によって再建されました。
現在建物として残っているのは観音堂と鐘楼のみで、また、三浦元忠の墓といわれる墓碑が残っています。
【協賛】本浦共有財產管理運営委員会
【製作協力】広島市立広島工業高等学校
仁保郷土史会
観音寺を菩提寺として建立した三浦元忠は文禄5年(1596年)に音戸の瀬戸の船の中で病死したそうです。
観音寺にある本浦の史跡
観音寺には本浦の史跡が複数設置されています。
本浦の史跡:せきぶつ:石仏
この左右合わせて36体の石仏は、三浦兵庫頭元忠の時代のものです。元忠は観音寺に禄として八十石と六町八反の田畑を与えていましたが、地元の人々はその土地を借り受け小作をしていたわけです。その畑地ごとに、管理しやすいよう、番号を振った石仏を置いたのでしたが、時代が移って様子が代わり、その地蔵を管理する人も居なくなり、土地の人々の要望により明治24年頃、観音寺に大切に移されたということです。
この石仏は田畑の番地がわりだったのですね。※市民菜園でいえば36区画あったのか。
本浦の史跡:如意輪観音と不動明王
この二つの像はNTT無線中継所が設置されていた山の麓にあったもので、現在は観音寺にあります。
山の頂上に建物がありますが、これが「NTT無線中継所跡」です。※観音寺の駐車場から望む。
如意輪観音(にょいりんかんのん)
観音寺の寺領地だった飯山 (NTT無線中継所跡のある山の麓にあった石像を、明治二十四年にこの地に移したものです。
この如意輪観音は六本の手を持ち、その手によって六道 (地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)という人間の善悪の業を救うとされ、人々はこの観音さまにお参りし、自然災害からの保護や安産、健康、延命という願いをしてきました。
不動明王(ふどうみょうおう)
お隣の如意輪観音と同様、寺領地飯山にあった石像を明治二十四年にここへ移したものです。
不動明王(お不動さま)は、私たちの最も近いところにいてくださり、不動使者とも呼ばれてきました。天地をあまねく照らし人々を救う大日如来の使者とされていますが、実は大日如来が姿を変え、不動明王になったとも言われています。
その大日如来さまは、一般の衆生を救うときには優しい般若菩薩(はんにゃぼさつ)の姿で現れますが、救いがたいような強欲乱暴な衆生に対しては憤怒形(ふんぬぎょう)の不動明王となって現れるのです。
従って、大日如来さま(不動明王)は、ものごとを明確に判断する知性を持つことにより、慈悲によって人々を救い、怒りをもって悪人を懲らしめるという両方の力を持つ存在なのです。
本浦の史跡:日本廻国巡礼塔(にほんかいこくじゅんれいとう)
石塔の正面にかすかに読み取ることができる文字は『奉納大乗妙典六十六部廻国』。建塔した日付や願主の名前もあるようですが、劣化していて読み取ることができません。
おそらく、この仁保島に住んでいた人が、日本六十六か国の霊場を廻り、写経した六十六部の 経典を奉納したことの記念塔なのでしょう。
日本廻国は、中世から近世にかけて行われた日本六十六の国分寺を巡る写経の旅で、十三年以上の歳月がかかるという大変な難行でしたが、この地にそんな勇気と忍耐力を持つ人が確かにいたわけです。
本浦の史跡:本浦の六地蔵尊(ろくじぞうそん)
観音寺への急な坂の途中にあるお堂に、赤い前垂を付けた七地蔵尊が立っておられます。
一体は迎え地蔵尊と言い、また仲良く並ぶのは六地蔵尊たちです。これらの六地蔵尊は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上) のどこにいても救いの手をさしのべる六道救済のための地蔵尊です。
本浦の六地蔵尊は墓地の入口にあります。ということは駐車場からのルートは裏口だったのかもしれません。
墓地の名としては「仁保本浦観音寺墓地」となっています。
征長の役「芸州口の戦い」で亡くなられた方のお墓
駐車場へ戻る途中に幕末の戦いで亡くなられた方のお墓がありました。
信州松本藩の方で、芸州口の戦いに出征中にこの地で亡くなられたようです。
征長の役「芸州口の戦い」に出征中、 仁保本浦に於て死亡
(右側)
信州松本藩
中村 久弥好利 墓
慶応二年九月十四日没 (一八六六年)
(左側)
信州松本藩
辻 新六久幸 墓
慶応二年九月二十二日没(二十四歲)(一八六六年)
芸州口の戦いは大竹の辺りが主戦場なので、 仁保本浦で病死したのでしょうか。
観音寺から望む風景
黄金山の中腹辺りにある墓地ですが、広島市内を一望できました。
駐車場からも広島市内を眺めることができました。
見晴らしの良い墓地だと思いましたが、お年寄りには坂道が大変かもしれません。
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