第11海軍航空廠とは・・・呉市広地区にあった広海軍工廠の航空機部が独立し1941年10月に開設されたもので、旧海軍の航空戦力を支えてきました。※終戦(1945年8月15日)にともない同年10月末に廃止された。
戦前・戦時中に存在した(と思われる)第11海軍航空廠 海田市工場 兵器部と工員寄宿舎について調べてみました。
第11海軍航空廠 海田市工場の位置
第11海軍航空廠 海田市工場群があったとされる場所は、現在の地名では以下となります。
- 兵器部:幸町・西浜
- 工員寄宿舎:蟹原2丁目・浜角
これらの位置は、地図・空中写真閲覧サービス(1945/08/11(昭20)米軍撮影)での写真と、アジア歴史資料センターのホームページ(第11海軍航空廠 海田市工場に関する情報)にて確認しました。
※私個人で調べたものなので間違いがあるかもしれません。
海田市工場 兵器部
米軍が撮影した昭和20年(1945)8月11日の写真
海田市工場以外に視線を移すと民家の数は少なく田畑ばかりの地域だったようです。
現在の地図
幸町・西浜の町域と海田市工場の敷地がほぼ一致しています。工場の敷地の大きさと町域がピッタリくるのは珍しく感じます。
国道2号線からユアーズ東海田店辺りまでの道は、当時から変わらず残っています。※道路幅員は変わっているだろうけど。
工場内について
アジア歴史資料センターの資料によると工場は四棟あり、機器の試験場や検査場がありました。烹炊場もあるので昼食・夜食等はこちらでとられていたのかもしれません。
1961~1969年の写真(戦後)
工場が四棟あった範囲は工場を仮校舎として「鼓浦中学校」が開校されました。この学校は後に「海田町立海田中学校」になりました。
残りの敷地は住居らしきものが建ち始めています。
現在は海田中学校のグラウンドがかろうじて当時を思い起こさせる場所のように感じます。
海田市工場 行員寄宿舎
米軍が撮影した昭和20年(1945)8月11日の写真
寄宿舎の周辺には民家が多いです。とくに瀬野川沿いには集落がありました。
現在の地図
海田市工場 行員寄宿舎の範囲は、蟹原2丁目と海田町立海田東小学校の一部のエリアとなっています。
当時を思い起こさせるものは何も残っていません。
寄宿舎内の建物配置
1961~1969年の写真(戦後)
寄宿舎の敷地の半分は民家(施設が一部残っているようにみえるが)で、反対側は当時の地図をみると高等学校と学校が並んでいるようでした。※現、海田町立海田東小学校であるかは調査が必要。
第11航空廠 海田市工場は何を作っていたのか?
標題:第11航空廠 3/4(2)
アジア歴史資料センターの資料によると、海田市工場は「呉補給工場」の扱いで航空機の計器等を作っていたようです。※海田市工場には「電気・光学・電気」の工場があった。
海田市工場の地下施設の存在
どうやら海田町浜角の山域に第11航空廠の地下壕が存在していたようです。
その目的は空襲から工作機器を疎開させるためでした。
海田市工場地下施設の建設から終戦、地下壕が閉鎖されるまでの顛末は、伊藤 園実さんの「広島における地下壕と朝鮮人労働者」のドキュメントに詳しく書かれています。
海田町浜角のとある公園。
なんとなくコンクリートで蓋をしているように見えますが、これが地下壕の入口である確証はありません。
参考文献
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011019700、第11海軍航空廠 引渡目録 4/4 (防衛省防衛研究所)、「第11航空廠 4/4(1)」
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011019200、第11海軍航空廠 引渡目録 3/4 (防衛省防衛研究所)、「第11航空廠 3/4(2)」
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