海田町稲荷町は広島県安芸郡に属する町です。
地図はコチラ(東西南北はgoogle-map画面の左右下上に準じます。記事の航空写真はアベコベです。)
海田町稲荷町の概要
海田町稲荷町は日浦山の山麓と瀬野川に挟まれたところに位置しており、町内には歴史のある安芸山陽道と西国街道の街並み、海田市駅の北口に接しています。
海田町稲荷町の主要県道は広島県道274号瀬野船越線と広島県道151号府中海田線で、最寄りの公共機関はJR海田市駅、海田町役場東バス停(海田町ふれあいバス南ルート)があります。※海田町役場は旧建物で新庁舎は別のところにあります。
広島県道274号瀬野船越線(安芸山陽道)、広島県道151号府中海田線
広島県道151号府中海田線
海田市駅北口に面している南側は戸建て住宅が多いですが、安芸山陽道沿いは史跡の「三宅家住宅」をはじめとして古民家調の家が並んでいます。
唯一存在する公園は町名を冠する稲荷町公園です。
寺院・史跡等
稲荷町の寺院・史跡等まとめました。
大師寺(広島新四国八十八ヶ所霊場)
大師寺は広島新四国八十八ヶ所霊場 第三十五番札所で、創建は天保十一年(1804年)という歴史のあるお寺です。
大師寺の入口は西国街道の通りにありますが、海田市駅からほぼ一直線で行ける道があるので意外と迷いません。
大師寺の入口は写真のとおり一目瞭然です。境内まで階段が続きます。
実は大師寺を経由して日浦山に登山できますが、山頂まで約90分なので体力と時間を相談して挑みたいですね。
ちなみに大師寺の境内には「和歌山加太浦 淡嶋神社」と「長宮稲荷社」があります。
明顕寺
西国街道を歩いているとお寺の鐘が見えてきますが、これは明顕寺の梵鐘で江戸時代中期に造られたものです。
この梵鐘を制作した鋳物師植木(金屋)源兵衛・新兵衛は芸州鋳物師筆頭総代と呼ばれた名工で、当時一里塚付近に住んでいました。
明顕寺には越後高田藩士の墓があり、第二次長州戦争の小瀬川の戦いで亡くなった藩士がここに葬られました。
三宅家住宅
明顕寺の梵鐘の真向かいに「三宅家住宅」という古い日本家屋があります。
江戸時代の後期に建築されたと推定される建物でかつては屋号を「新宅屋」といい、農業を基盤としつつ金融業を営んできたそうです。
この三宅家住宅は国登録有形文化財に登録されています。
真田安夫翁顕彰碑
西国街道沿いにある海田町真田会館という建物、この敷地は中国電力副社長だった真田安夫氏が寄付されたものです。この土地は真田家の発祥の地で地域社会に役立てるために寄付されました。
真田会館前に真田安夫氏の顕彰碑があります。
顕彰碑の隣には「織田幹雄ゆかりの地 織田幹雄生家跡」の石碑があります。日本人初のオリンピック 金メダリストとなった織田幹雄氏は明治38年(1905年)この付近で生まれました。
※昭和3年(1928年) にオランダ アムステルダムで開催された 第9回オリンピックの三段跳で優勝し、日本人初のオリンピック 金メダリストに。
三段跳で優勝した織田幹雄、自宅の裏庭に砂場を作って跳躍の練習を繰り返し、この地から世界に羽ばたいていきました。
※広島中 (後の広島一中。現広島国泰寺高等学校)進学後に本格的に陸上競技をはじめていったそうです。
火の見櫓
「火の見やぐら
昔はてっぺんに半鐘が付いており、
火災などの時にそれを鳴らして
周囲の人に危険を知らせていました。海田町」
銘板より
時代劇の火事シーンで火消しが半鐘を鳴らすシーンを見たことありますが、昔は実際に火災があったときは鳴らしていたのでしょう。現在はやぐらだけになっています。
旧山陽道海田市の一里塚跡
海田町稲荷町のこの場所に旧山陽道海田市の一里塚跡があります。一里塚とは慶長9年(1604)に全国の街道に「一里塚」を築く命令を出したことが始まりとされます。一里塚は、街道の両脇の一里(約4キロメートル)ごとに築かれています。
海田町稲荷町の今昔(1961~)
住宅と道路事情
現代と昭和30年代を比較しますと、昔から建物が密集した町であったようで、
町内の道路も昔からの姿を保っています。
大きな変化があったところ
海田町稲荷町で過去と現在で大きな変化があった場所ということで、海田市駅周辺(b)と西国街道沿い(a)をピックアップしました。
海田市駅周辺ですが、当時(昭和30年代)は現在の北口が駅の玄関口となっており、その周辺には民家が連なっていました。現在は駐輪場等となっています。
次は西国街道沿いですが、当時(昭和30年代)は街道まで木々が迫っている感じですが、現在は擁壁で固められています。
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